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  • 夏休み
    [ 2018-07 -23 00:54 ]
  • 一路真実「親島の鼓動」感想(8) 
    [ 2018-07 -13 11:46 ]
  • 煙台通信
    [ 2018-07 -08 22:56 ]
  • 一路真美「親島の鼓動」感想(7)
    [ 2018-07 -05 01:02 ]
  • 一路真実「親島の鼓動」感想(6)
    [ 2018-07 -01 19:41 ]
1
2018年 07月 23日

夏休み


 あつい熱い。家はクーラーがないので、夏突入と同時に日中は図書館か、喫茶店で読書。
 このくそ暑さの中で、暑苦しい文章なんか書いてられない。破滅の文学は盆が明けて、朝晩涼しくなるまでお休み。考えるだけで破滅しそう。

 今の若い作家志望の方は、子供のころどんな児童文学を読んでいただろう。30くらいの年の差では、私が青年期に読んでいたものと、例えば一路が子供のころに読んでいたものと、あまり違いはないのではないがという気がする。一般の消費財のようには、児童文学作品は過去のものにならないから。
 ただし私は神沢利子、今江祥智や灰谷健次郎、長谷川修平あたり以後の作家を知らない。
 村山早紀は一冊しか読んでなかったし、角野栄子は「魔女の宅急便」のアニメしか知らないので、今読んでいる。

 一路の少女が主人公の作品は、なんとなく長崎源之助のプロットを連想させる。表現は誰だろう。今江祥智のショートは成長を主題にすることはないし、わからない。好きな児童文学作家そのうち教えてもらおう。

 と、そういうことで、この夏は児童文学を読みます。しばらくお休み。








▲ by hikari_1954h | 2018-07-23 00:54 | 星屑書房「創星」
2018年 07月 13日

一路真実「親島の鼓動」感想(8) 



 (2)破滅の文学;イワン・カラマーゾフの場合
 
 『カラマーゾフの兄弟」というのは、いろいろなものを あぶりだす試金石のような働きをする。

 「罪と罰」は24歳の時に読んで、物語はすっかり忘れていても、今いろいろと文献にあたっていて、物語の記憶が甦る。しかも論評の語るところをすんなりと理解できる。良い翻訳で読んだから。
 しかし「貧しき人々」「悪霊」「カラマーゾフノ兄弟」は亀山郁夫の訳が初見だった。おまけに佐藤優との対談本まで読んでしまっていた。
 その最初の刷り込みによって、正当な訳で読んでも、論評を読んでいても混乱を引きずる。
 佐藤優があの対談本の人物だったことにも驚いている。彼は雑学のような知識で知ったかぶりをする。(神学でも国際問題でも)自分が分からないところは、デタラメな解釈を施すところは一貫している。似たもの相寄るの図。
 
 漢学の素養が学問の基礎として確かな、江戸から明治期に生まれた知識階級、教養人は和漢洋に通じた人が多い。
 北一輝は独学で社会主義思想を咀嚼し、その書は一流の書家のよう。軍の中枢にいた人たちの漢詩や和歌、書に目を見張ることが多々ある。
 思想統制されていたとはいえ、思想哲学書の普及とその理解能力は、現代とは比較にならないだろう。 若者のキリスト教理解も今とは隔世の感がある。

 一八七六年に開校した札幌農学校(現在の北海道大学) のクラーク博士。帰国の前にクラークの感化の下、「イエスを信ずる者の契約」に農学校の一期生全員が署名した。

 原文は英語「下に署名する札幌農学校の学生は、キリストの命に従いてキリストを信ずることを告白し、且つキリスト信徒の義務を忠実に尽して祝すべき主即ち十字架の死を以て我等の罪をあがない給いし者に、我等の愛と感謝の情を表し且つキリストの王国拡がり、栄光現われ、そのあがない給える人々の救われんことを切望す。故に我等は今後キリストの忠実なる弟子となりて、その教えを欠くることなく守らんことを厳かに神に誓い且つ互に誓う。(後略)」(大島正健『クラーク先生とその弟子たち』新池書房)。これが札幌バンドの始まり。
 
 クラークの在職期間は8か月ほど。それでクラスの全員が契約に署名したのだから、キリスト教の理解は学問のように、長い時間を必要としないということの証でしょう。
 青色で表示したところさえ受け入れることができればキリストの僕(しもべ)なわけです。
 ネトウヨみたいに毛唐の宗教、邪教などと言ってはいけません。
 明治の初め、私たちのご先祖さんたちが、新しい時代の志に燃え、西洋文明とキリスト教に心を開いた象徴的な出来事です。

 神が人となり、キリスト(救い主)として苦しみを受け、罪あるすべての者のために、十字架につき罪を贖(あがな)いたもうた。

 これは幼子のようでないと受け入れることは難しい。しかも罪の自覚を迫られる。
 キリストの救いは厳しい罪の意識と対になっている。罪の反対語は罰ではなく、救いなのだ。

 人は罪に迷い、罪にとらわれる。罪の意識が深ければ深いだけ、許しを拒否するという厄介な代物だ。許されるくらいなら死を選んでしまうという場合がある。

 キルケゴールの「死に至る病」。神から離れ死の淵をさまよいながらなお、その重荷を下ろすことができない、近代人の病。
 死とともにあの世にもっていく秘密のように。たとえ虐待の場面であれ、たった一つの、失うわけにはいかない母の記憶のように。 人の心は複雑だ。

 「カラマーゾフの兄弟」この複雑で深遠な思想劇も、実は一点さえ押さえれば迷うことはない。       
 「この小説に「躓き(つまずき)」を抱えていない人物がいますか? 自分を「嫉視」していない人物がいますか?「自己自身に対して最も悪意を抱いている」のでない人物がいますか? ーーそうして、この小説の全体に、彼らへさしのべられた《ただ一人の罪なき人》の手が描かれていないでしょうか? さしのべられたその手にそれぞれの登場人物がどのように反応するか、その応答が『カラマーゾフの兄弟』ではないですか?」
木下和郎「連絡船」
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf

 
 市川は「カラマーゾフの兄弟」読解の歴史で、過去のものであるフロイトの「父親殺し」を最新の研究と吹聴した。
 そしてドストエフスキーの死で書かれずに終わった第二部が、皇帝暗殺を主題とし、アリョウーシャを主犯に、コーリャを実行犯とするとして一書を上程した。その線に沿って原本の文章を改ざんまでしている。
 
 躓きを抱え、自己自身に悪意を抱いている人物たちと、彼らに差し伸べられた「ただ一人の罪なき人の手」にどう応ずるか。

 物語の表層であるストーリーだけ追っていては、プロの作家でさへ、つじつまが合わないと感じ、作者が無理な介入をしてつないでいると捉えたりする(辻原登)。
 あるいは物語の中間層に自伝的なものをもちこんで補う(市川)などと頓珍漢なことを書いたりする。
 ドストエフスキーの人物は徹底的に思想化された人格で、

「一つの観念の生命がその人物の生命となっているところの人物」なのである。その主題の思想の中に事件がとり入れられると、それらの事件はたちまち「小説的な生命をもち、何かへ発展しようとする機能をもつに至る。ドストエフスキーの作品構成の第二の特徴として椎名が指摘するのは、一つの作品に主題が「大小無数」にあること。いうならば人物と同じ数だけの主題があり、その軽重は人物の位置によって決まるが、「その主題群は、相互に連関を欠いているので、ドストエフスキーはその主題の間を緊密にし、全体的な主題の下に制約しようとした」
木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost205.htm


 一路は思想を語れる人と思うけれど、「あたしが求めている作品世界じゃない」というかもしれない。では「観念」を「詩」に置き換えて読んでみましょう。

「一つの詩の生命がその人物の生命となっているところの人物」なのである。その主題の詩の中に事件がとり入れられると、それらの事件はたちまち「小説的な生命をもち、何かへ発展しようとする機能をもつに至る」。

 「親島の鼓動」で一路は詩に出会っていると私は理解したのですが。なにか展望が開けないだろうか。

 高度な思想についていけないこと、それから作品構成の抽象性の高さについていけないことが読みを誤らせる。
 なによりもキリスト教と神学が頭でわかっても、感情がついていかないところに一番の原因がありそうだ。
 それは致し方ないことだ。あの小林秀夫でさえ「私にはドストエフスキーが解らなかった。それはキリスト教が解らないから」「いまもって解らない」と書いている。
 小林のことだから生涯をかけた問いであったろう。多くの苦悩もあっただろうと思う。   しかし解らなかったのはキリスト教ではなく、罪を贖うイエス・キリストその人の招きであったろう。

 だから社会的地位のある人たちは、小林のように潔く、解らないなら解らないと言えばいいのだし、自分の任ではないと思ったなら仕事を断れば済むことだ。
 まー、そこは誰しも欲があるから難しいけれど。あ、私は社会的地位なんてないから、何を書いても影響力もない。ただ一路さんに思いが伝わればいいなと。162.png 

 人は物語を生きる。市川の誤訳について学びながら、私も一つの発見をした。
 人が物語を生きるとき、罪の意識を剥落させる、相殺することが起こり得るということ。
 罪の意識の過剰は百害あって一利なし。しかし罪の意識の喪失は百倍 害がある。
 富の独占のために人を支配しようとするもの、売国の政治家、原発村の住民たち、みな一様に「俺は偉大」の物語があり、同時に罪の意識の欠如がある。
 
 「破滅の文学」とは破滅に至ったものの内なる物語を紡ぎだすこと、というのが私の定義。
 そして最大の破滅は、罪を犯すことでも、自他を死に至らしめることでもなく、罪の意識の欠如であろう。すべてはここが発端だ。 
 
 イワン・カラマーゾフは悲惨な運命の子どもたちを列挙し、自分は「神を信じないんじゃない」という。「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を認めることができないんだと。「世界じゅうでたった一人にせよ」、「すべては許される」と主張するにいたる。悪魔の侵入を許し破滅。

 
「イワンは「大審問官」で《ただ一人の罪なき人》の愛が人間にはあまりにも大きすぎ、高すぎたと主張したんでした。イワンは《ただ一人の罪なき人》から「離反」し、「孤独」のなかへと進み・沈みます。彼は誰に対しても自身を閉じます。

 それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? 彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。その故に彼はそれを取り除き、破壊して、それを気狂いじみた無意味なものであるということにしてしまわなければならない。それはあたかも彼を窒息せしめるものであるかのように思われるのである。(キェルケゴール『死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫)
 イワンはキリストを信じていた、と私は繰り返しましょう。ただ、彼には「謙遜な勇気」がないんです。彼は躓きます。しかし、「こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心」は実は信仰に最も近いところにあるでしょう。もうあと一歩なんです。」木下和郎


 
 以下次回






▲ by hikari_1954h | 2018-07-13 11:46 | 星屑書房「創星」
2018年 07月 08日

煙台通信


今日は野崎さんと会話をしましたあ、
電話じゃありませんよ、微信(ウィーチャット)です。
重慶に行った後は、野崎さんのいる長春に行こうと思います・
野崎さんは7月17日から2週間ほど帰国する予定だそうです
帰国の際には福岡空港を利用されるそうです詳細は分かりませんが、
もし機会があれば父さんも会うことができると良いですね




▲ by hikari_1954h | 2018-07-08 22:56 | ヨシノブ中国留学
2018年 07月 05日

一路真美「親島の鼓動」感想(7)

 ドストエフスキーについて書かずに済まそうと思ったけれど、どのみち破滅の文学について書くのには、避けて通れないのであった。逃げれない、浅はかだった。

 「カラマーゾフの兄弟」は物語が重層していて、表面のストーリーから深層のものまで幾重にも複雑に重なる。しかもテーマにについても、表面から深層までストーリーと絡まりながら重層構造になっている。

 ドストエフスキーの人間、社会、歴史の洞察が常人の境をはるかに超えているから、100年やそこらの研究では追いつかない。ソビエトが崩壊するというような歴史の大転換があって、初めて見えてくるものがあったりする。

 ドストエフスキー作家活動の初期に限っても、「共産党宣言」、パリ2月革命、ウイーン、ベルリン3月革命(1848年)、瞬く間にヨーロッパ全域に革命の火の手が上がる。
  時代は社会主義革命に向かって大きく動き出している。作家自身 ベトラシェフスキーの空想的社会主義の会員となり逮捕、投獄、9年間の流刑(1849~1858年)。
 「地下室の手記」(1864)、「罪と罰」(1866)白痴(1868)悪霊(1871)」「カラマーゾフノ兄弟」(1880)
 年代を一応押さえておいて。

 シベリア流刑中にキリスト教人道主義への転向。私はほんとかなと疑っていたけど、これは世を欺く姿なんかではなく、魂の奥深い所での信仰との格闘であったようだ。

 妻を亡くし棺を覗き込みながら、ドストエフスキーが一心に考えていたのが、キリストの十字架の贖い(あがない)を受け入れて、罪は許されるか、受け入れることができるかであったことが、遺稿で確認される。

 亡くなる前の「全ての民族をキリスト教に従って和合させ、偉大な全的調和をもたらすべき」とする言葉は本心からのものであろう。

 にもかかわらず、そうかロシア正教の信仰か、では済まされないのが彼、ドストエフスキー。

 カラマーゾフノ兄弟次男イワンの「神はいるかいないか、いないのなら善悪はない、すべては許される(殺人も)」の言葉。
 これはカントのアンチノミーの反命題(アンチテーゼ)だとぴんとくる。
 緻密な研究をした人もあるようだけど、では正命題(テーゼ)はどうなるのか。
「神はいる、人は神の定めるところによって善を為し、悪を避けるように定められている」だろうか。一応こういうことにしておいて。
 それで両者がアンチノミーであるのなら、相互に反証し合って、どちらの命題も成立しないこを示さなくてはならない。

 神はいるともいないとも確証できない、したがって善悪は人間理性が観念を突き詰めて導いたもので、絶対的存在も先験的な善悪も存在しない。
 さらにカントに従うなら、倫理の実践において神を要請することで善悪の理性判断を有効ならしめることは可能である。と持っていかなければならない。
 だいたい善悪は人間の理性が作り出したものというのは、「エチカ」(1677年)の中でスピノザがすでに言ってる。

 あらあら するとなんだ ドストエフスキーは、イワンの口を借りて「神はいるともいないとも証明できない、神は人間の理性が作り出したものだ」と本心を白状していることにはならないか。
 ドストエフスキーほどの人なら若い時に、社会主義者として無神論となる時点で、すでにこれくらいの考察は終わっていたに違いない。

 話を戻して、命題、反命題からの反証を試みてみよう。
「神がいないのであれば、善悪はない」は成立しない。なぜなら「神がいなければ善悪はないといった時点で、すでに善悪を神の属性と捉えており、神はいると言っているのに等しい。
 この主張は旧約聖書モーセの十戒を前提としており、(もし)「いないのであれば」は仮定法であり、仮定法は定法を前提とするからである。

 今度は反命題から、命題「神はいる、人は神の定めるところによって善を為し、悪を避けるように定められている」を反証してみる。(半分遊びだからつきあって)

 人は神の知性のもと与えられた理性によって善を愛し悪を憎む。しかし悪を生み出したのは外ならぬ神自身ではないのか。
 創世記の6日の天地創造のどこに「善悪」の創造の記述があろう。
 アダムとイブを土のチリから形作り、鼻に息を吹き込んだ時に、命と同時に善悪を人間に吹き込んだのではないか。

 エデンの中央に善悪の知識の木を植え、蛇にそそのかされて、それを食するようにしむけたのは他ならぬ神自身。
 神なる知恵の木の実によって、善悪を知るものとなるのは、すでにアダムとイブの内に、善とともに悪が植え付けられていたことを前提としてのみ可能である。
 存在しないものを認識することはできないからである。

 全能ではあっても、悪意に満ち、人を罪によって苦しめる神を、だれが愛なる神と認めよう。愛なる神がいないのであれば、キリスト教の神もいないのである。

 中二(厨二)病 イワンの論法で、どちらにしても神はいないという結論を、導いてみました。
 
 次にイワンのあの叙事詩「大審問官」について考えてみましょう。

以下次回







▲ by hikari_1954h | 2018-07-05 01:02 | 星屑書房「創星」
2018年 07月 01日

一路真実「親島の鼓動」感想(6)



 一路真実の作品評から離れてしまいました。
「親島の鼓動」所収の「ママ」の主人公、順子は考えようによっては不義の子だけど、一路は物語づくりがうまいから、少女のひと夏の成長物語としてさらっと、作品化していている。
 三浦綾子の「氷点」くらい、あざとい設定にしないと「罪と許し」のテーマは出てこない。
 罪と救済の物語として可能性がありそうなのは「星創」9号の「鈴木孝道の苦悩」かな。
 長編小説から孝道にも物語があるはずと、書いた短編とのこと。
 これはけっこうやばい、猟奇を思わせる人物像を書いている。あの、ろくでなし子のまんこ・・・・
 で、でたー、ちんこは良くて まんこは何故書いてはいけない。差別だー。こほん、失礼しました。規約違反により記事削除。

 あの、ろくでなし子の女性器アートを、男  
孝道がやってるのは、そうとう逝ってるよね。
 それに、女性家系コンプレックス?の弟に、〇〇こを描かせながら「触ってみる」、互いの年齢からして、お医者さんごっこではすまないのでは。
 モデルを頼んだ女の子を、あわや強姦かという場面で、「やめてお父さん」。き、近親相姦。
 本作品の本編もそうとう、やばいお話が想像される。しかしおそらく一路は決して破滅の物語にも、罪と救済のような物語にもしないだろう。悲喜劇くらいだろうか。
 
 ということで予定変更。
「カラマーゾフの兄弟」は「ヨブ記」を下敷きにして、組み立てられた物語だけど、木下豊房氏の論文を読んでもらうことにして、次回は「破滅の物語」。
 成長の物語について書くには、罪と救済、破滅の物語(または悲劇)について、書いておかないと、先に進めない。
 

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こちらは「お祭りやぐらまん」というデコまん作品。ろくでなし子氏のま○○から模られた”溝”の上で、人々がドンチャンお祭りしている…

女性器アートで逮捕された「ろくでなし子」が語った“女性器の権利”とは? あはは
https://joshi-spa.jp/114448


再読『カラマーゾフの兄弟』
 -その主題構成について考えるー
    木下豊房
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost131a.htm






▲ by hikari_1954h | 2018-07-01 19:41 | 星屑書房「創星」
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