林徽因の詩『笑』の鑑賞(工事終了) |
林徽因『笑』
笑的是她的眼睛,口唇,
和唇边浑圆的旋涡。
艳丽如同露珠,
朵朵的笑向
贝齿的闪光里躲。
那是笑——神的笑,美的笑;
水的映影,风的轻歌。
笑的是她惺松的鬈发,
散乱的挨着她的耳朵。
轻软如同花影,
痒痒的甜蜜
涌进了你的心窝。
那是笑——诗的笑,画的笑:
云的留痕,浪的柔波
野崎晃市さんの訳
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8758.html
『笑』
笑っているのは彼女の目、唇、
そして唇の周りの丸いえくぼ。
露の玉のように美しい
たくさんの笑いが
白い歯の輝きの中に隠れんぼ。
あれは笑い、神の笑い、美の笑い
水に映る影、風のハミング
笑っているのは彼女の寝ぐせのついた髪が
彼女の耳にハラハラとかかっているから。
花の影のように軽くて軟らかく
くすぐったくなるほど甘く
あなたの心の中にしみわたる。
あれは笑い、詩の笑い、絵の笑い
雲の痕跡、波のしぶき
この林徽因『笑』の野崎さんの訳は十分な推敲を経た決定稿でしょう。
今日は原詩についての感想を書こうと思います。
「箸が転がってもおかしい年頃」というのか、さざめく乙女の心みたいなところを、美しく捉えた詩で、林徽因の生きた時代を考えると非常に清新な詩情が詠い込まれています。
言葉の文学的な修辞は過度にならず、しかも細心の注意を払って選択されています。
唇边浑圆的旋涡
唇の周りの丸いえくぼ
直訳してしまうと「唇の周りの真ん丸い渦巻く くぼみ」
「えくぼ」は、web辞書では「酒窝」「 笑窝」が出てきます。
「旋涡」は「渦巻き、渦を巻く」の意味で「えくぼ」とは出てきません。
あえて「浑圆的旋涡」とすることで、露珠、贝齿、闪光里とイメージを重ね、第一連の最終行、「水的映影,风的轻歌」を引き出しています。
贝齿は"瑞歯"ミズハ「若々しく美しい歯」の意味ですが、貝のように白い歯で、光と渦を巻く流れ、露の珠、水の陰影へと言葉とイメージを積み重ねていきます。
「水的映影」ですからハミングは海明(ハイミン)では意味がくっつき過ぎます。
「轻歌」が林徽因の造語なのか、当時使われていたのか、今も使わないことはないのかどうか、私には分かりませんが、ここは軽やかに「风的轻歌」と対照させるのがベスト。
「神的笑」「美的笑」が私には引っかかるというのか、硬く感じられるのですが、この点は最後に書きましょう。
次に第2連
笑っている彼女の描写から入って、その格調の高い表現の、笑っている理由が、
「彼女の寝ぐせのついた髪が 彼女の耳にハラハラとかかっているから」。
という意外な展開です。
なんでもないごく日常の情景に感応している林徽因の感受性。 さらに
花の影のように軽くて軟らかく
くすぐったくなるほど甘く
あなたの心の中にしみわたる。
と、続きます。とっても甘やか。男にはよう書けません。
女の感受性というより、少女のそれ。しかし少女性で終わっていないところが、この詩人の特性。
第一連の「旋涡」第二連では「心窝」と対応させていますが、心の中を、日常語の「心里」を使わないのは、俗に流れない、詩人の矜持。
「涌进了」の「涌」は、内から外に湧き出る様ですから、湧き出ては染み入る両義性を持たせた詩語になっています。
漢字を2語連ねるときは同意語を連ねて意味を強調するか、同じ漢字を2語続けて軽さを出すのが中国語の公理ですから、こういう用例は特殊ですね。これも林徽因の造語でしょうか。
でしょうかと書くのは、私は専門家ではないので、断定して恥をかきたくないからです。^^ ぺろ。
躲は「隠れる」で、隠れん坊は「捉迷藏」「藏猫儿」で「闪光里躲」だと、「輝きの中に隠れている」となりますが、野崎さんは「かくれんぼ」と訳されています。
「柔波」も独特な女性的な印象を与えます。
こうして、使われている詩語、漢字の使い方を見ていくと、林徽因の言葉、文字へのこだわりが浮かび上がります。
はじめて林徽因の詩に触れて「你是人间的四月天」を訳してみた時は、難解な表記にとまどって、古典に用例を探しても出てこず、てこずったのですが、今回は林徽因の詩の作法、独特の表記と見当がつきました。
林徽因ら当時の詩のグループがタゴールに影響を受けたということですから、林徽因の漢字の使い方が、タゴールの英訳詩と何か繋がるものがあるのかと、当たってみました。
ベンガル語から英語の詩への訳はタゴール自身が行ったのですが、簡潔で分かり易い英語です。
あるいは林徽因の詩の主題の易しさと、表現の難解さは、漢詩の永い歴史から近代詩(当時は現代詩な訳ですが)への脱皮という格闘の跡なのかもしれません。
ラビンドラナート・タゴール「ギタンジャリ」62
When I bring to you coloured toys, my child, I understand why there is such a play of colours on clouds, on water, and why flowers are painted in tints---when I give coloured toys to you, my child.
When I sing to make you dance I truly nowhy there is music in leaves, and why waves send their chorus of voices to the heart of the listening earth---when I sing to make you dance.
When I bring sweet things to your greedy hands I know why there is honey in the cup of the flowers and why fruits are secretly filled with sweet juice---when I bring sweet things to your greedy hands.
When I kiss your face to make you smile, my darling, I surely understand what pleasure streams from the sky in morning light, and what delight that is which the summer breeze brings to my body---when I kiss you to make you smile.
英語の原文はこちら↓
Gitanjali by Rabindranath Tagore
「坊や、おまえに きれいな色のおもちゃをもってくるとき、 母さんにはわかります――どうして 雲や水にあんなに美しい色彩(いろ)の戯れがあるのかが、どうして花々が色とりどりに 染められているのかが。
坊や おまえにきれいな色の おもちゃをあげるとき。
お前を踊らせようと 歌うとき、母さんには ほんとうにわかります――どうして木の葉のなかに音楽があるのかが、 どうして浪たちが耳をすませて聴いている大地の心臓(むね)に さまざまな声の合唱を送るのかが。おまえを踊らせようと うたうとき。
おまえの欲ばりな手に 甘いお菓子をもたせるとき、 母さんにはわかります――どうして花のうてなに蜜があるのかが、 どうして果物が こっそり 甘い汁をいっぱいかくしているのかが。おまえの 欲ばりな手に 甘いお菓子をもたせるとき。
いとし子よ、おまえの 頬に口づけして おまえを にっこりさせるとき 母さんには はっきりわかります――朝の光となって 空からながれてくるのは どんな喜びなのか、夏の微風が 母さんの体に運んでくるのは どんな歓びなのかが――おまえの頬に口づけして おまへを にっこりさせるとき。
森本達雄訳(第三文明社タゴール著作集 第一巻)より。
in the cup of the flowers を「花の芯」と訳すのか「花のうてな」と訳すかの、一語の違いでも、この詩の全体に与える印象は随分違ってきます。
高貴な魂から詠われた高貴な詩には、美しく典雅な文語が時に威力を発揮します。
「邦訳は日本語力」というのを実感します。
昭和42年初版のアポロン社「詩と人生」では、タゴールと生涯の親交が深かった、片山敏彦と高良とみ、山室静らが執筆、翻訳していますが、甘さと臭い立つような、大和言葉で私はすっかり酔わされました。
子どもの母への呼びかけは「おかあさま」で統一されています。
それから時を経て山室静女史が「これが私の決定稿」とされた、タゴールの訳詩集では「かあちゃん」となり、甘さと華麗さを徹底して排除したパッスンパッスンの訳で、ほんとにがっかりしたものです。
しかしタゴールの英訳詩をどのように訳すのが最も本来の姿なのかは、タゴールの手になるベンガル語による詩集による以外ありません。
それを為したのは伊藤晋二という方ですが、若い頃少し読みかけた時は、あまりに素朴すぎて違和感を覚えたとのこと。
その訳業は残念ながら一般の書店では手に入りません。
タゴールの詩は短歌のように短い詩でも、深い霊感に満たされています。しかも全ての詩が指し示す先にタゴールが「あなた」と呼び「一者」と呼ぶ神との静かな対話があります。
私が読んできた詩人の中でただ一人、その詩の核にあるものと、表現を共有しているのは、岡倉天心のみでした。しかもただ天心の一篇の詩に触れただけですが。
確かボストン美術館の中国・日本美術部長をしている頃の作だったと思います。タゴールに当てた私信だったかもしれません。
タゴールと岡倉天心は誰よりも互いを知り、尊敬しあっていたに違いありません。
岡倉天心というと思想家、美術史家がまず浮かびます。東京美術学校初代校長として、横山大観、下村観山、菱田秋草らを育て、日本美術院の創設者。そして「茶の本」。
詩人としての業績はまとまった本や評価を読んだことがないのですが、「天心」の号は詩作などでのみ用い、他では本名の「覚三」で呼ばれていたとのこと。
タゴールは中国のロマン派詩人たちに大きな影響を与え、徐志摩・聞一多・林徽因・胡適等はタゴールの詩の影響を受けて雑誌『新月』を発刊した。この雑誌にちなんで、彼ら近代中国のロマン派の詩人は「新月派」とも呼ばれている。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8524.html
と、野崎さんの説明があります。
タゴールの詩の本質を自らの詩作に溶かし込むというのは、容易なことではないでしょう。岡倉天心のような天才にして初めて可能な領域。
実のところ私にはまだ林徽因の詩からタゴールが見えてきません。
自然や日常の一場面に詩情を託し抒情を詠うというところに、タゴールが与えた影響が有るのだろうと捉えています。
林徽因が『笑』で「あれは笑い、神の笑い、美の笑い」と書いていますが、神との対話がないのです。
永い儒教と祖先礼拝の道教の歴史を背負った国ですから、タゴールが語りかける「神」は、簡単には出てこないでしょう。
ヒンドウの神々の元を辿ればベーダ。ミトラの神々、ゾロアスターの神々ひいては、ユダヤ教からキリスト教の神に繋がるのですから、タゴールの時代の西欧社会でタゴールの
詠う神が受け入れられる素地はすでにありました。タゴール自身意識的にキリストに引き寄せて英語詩を書いたことでしょう。
イギリス統治下のインドで、その祖父はヨーロパを旅すればイギリス王家、フランス王家の賓客であり、父は「無形の神と理性を尊ぶ」ラム・モハン・ロイが創設したブラーフモ・サマージ教団の後継者でもありました。
子どものころにアリストテレスの哲学とユークリッドの幾何学をアラビア語で読み、ヒンドウ教を核に、キリスト教もイスラム教も研究したロイです、インドの理神教とも言われます。
そのような環境で育ったタゴールの神には普遍性があります。
つまらない私事をここで書くべきではないのですが、タゴールの詩に魅せられた若い頃の私は、福岡県内の古本屋をその詩集を求めて探し回り、詩を書き出してからはタゴールの神と格闘しました。
私はクリスチャンでしたから、それはほんとに長い格闘でした。
ですから新月派の詩人達にとって「神」は、どのように内面で戦われたのだろう、という点が一番気になるところです。
少なくとも「笑い」から受ける印象は、当時の社会的エリートの階層に属する若者たちが、アメリカの一流大学に学び、いかに西洋の学問を中国文化に取り入れるかという、重い課題を背負い、そこにエネルギーを集中しただろう姿です。
「あれは笑い、神の笑い、美の笑い」「あれは笑い、詩の笑い、絵の笑い」という固い表現に端的に示されています。
清朝末期から現在の中華人民共和国にいたるまで欠けている最大の点は「神」です。
汎神論としての儒教、道教(それから日本の神道)についての議論の焦点は、自然的な人間の本性から、導く善は孝、その延長としての忠に留まり、絶対的な善の定立には人間存在と隔絶した、一神教の神が前提されなければならない。
こういうことになるのでしょうが、カントに従えば絶対的な善というようなものも、理性の拡大使用といことになります。
いずれにしろ唯一神との対峙というのは、避けがたいものとして、人類は抱え込んでいます。
野崎さんは
「我は内村鑑三に倣い二つのC、すなわちChrist & Chinaを我が人生のモットーとして、中国にキリストを紹介することを任務としたい」と宣言されています。
では最後に「笑い」の邦訳に一つの言葉を挿入して、本稿を終わりにします。
第一連の「神の笑い、美の笑い」は第二連の
「詩の笑い 絵の笑い」より上位概念です。
最上級の抽象概念「神」とそれに次ぐ「美」を第一連に持ってきたのは、熟考の末だろうと思えます。「詩」と「絵」はさらにその下位概念です。
いきなり「神の笑い、美の笑い」をもってくるより、「詩の笑い 絵の笑い」を先にするほうが、読み手は少しは受け止めやすいかもしれません。
第二連は「笑っているのは彼女の寝ぐせのついた髪が 彼女の耳にハラハラとかかっているから」と、日常的、具体的な描写で、文法もいくらか口語的です。
「鬈发」巻き毛と、より具体的、絵画的描写です。
そう考えると、前後関係としてはこうなるだろうとも言えます。
ただタゴールを念頭において読んでいますから、個人的には物足りなさがあります。
どこまで意訳が許されるのか、難しい問題ですが、詩人の胸のうちにあって表現しきれない想いを、一言代弁するのは許されるという立場でいきます。
那是笑(自至)——神的笑 美的笑;
と読んで。
その笑い(どこからくるの) 神の笑い、美の笑い
那是笑(自至)——诗的笑,画的笑:
と読んで。
その笑い(どこからくるの) 詩の笑い、絵の笑い
以上です。