アニミズムからフラジャイルへ |
カナダ、トロント在住の画家ポケット画伯の作品を見てみましょう。非常に美しい抽象絵画です。
繊細な色彩感覚と自在な筆さばき?。
大胆な表現です。
ポケット画伯のお写真です。
飼い主が病気で外に出れなくなりポケット君に絵の具を与えたら絵を描きだしたのだそうです。筆などの道具を使わずに、尻尾、尻、手足、舌などの全身を用いて絵を描くとのことです。作品は売買されているそうです。
描かれた点や線、色彩には、それが例えば幼児の手になるなぐり書きであっても、サルなどの動物が描いたものであっても、生命が宿ります。
力とスピードをもってフリーハンドで描かれた点や線が、感受性や意思で制御されて提示されると、私たちに無条件に芸術的な感興を与えます。それが色彩の力を伴っていれば、印象はより強いものとなります。
サルが言葉や思考を有しないとしても(素質と環境によってはサルも言葉を操作し、思考します)、その生命で世界と向き合い、感受性も感情も愛さえ有するのですから、場合によっては描かれたものが芸術性を帯びることは十分ありえるわけです。
ただし人間の3歳児のように円が閉じて、頭足人間の誕生には、知能の壁があります。少なくともカードで日常会話をするボノボでもこの壁を越えることは困難かもしれません。
象徴的に形を捉えて描くことは出来なくても、芸術鑑賞の第一義が形以前の表現行為にあることを、ポケット君の絵は教えます。
サルや像が描いた抽象的な絵や、人間の幼児が描いたなぐり書きが、力強いとか、美しいと感じるのは、私たちに与えられた感受性であって、たんに知覚のゲシュタルトではありません。
ミュラー=リエル錯視
同じ長さの線が条件によって異なって知覚されます。
「〈要素〉は、それらの要素全体がもつ固有の条件によって、部分として存在しているのであり、そういう全体と相対的関係にある〈部分として〉、理解されなければならない」(ヴェルトハイマー)
と説明は難しいのですが、知覚の働きとして錯視があったり、まとまりのある形を読み取ったり、地と図といった形で、知覚のあり方というのは先験的(ア・プリオリ)に与えられています。ここが出発点です。
知覚と認知の枠組みというのは、おそらくサルから引き継いだもので、事柄によってはサルの知覚、認知のほうがずっと優れたものさえあります。その先験性の背景ををゲシュタルト心理学が「自然」と言ったのは、正しかったわけです(先験性は哲学では神の領域でした)。
またポケト君の絵を、我々人間が力強いとか、美しいと感じるその感受性も先験的に与えられたものであって、「なぜ、美しいと感じるのか」と聞かれても、「美しいから美しいと感じる」としか答えようがないわけです。
そして翻ってこの絵を描いたお猿さんも、人間と同じ感受性が与えられているからこそ、このような絵が描けるのだと考えるのが自然でしょう。サルはたまたま手を動かして形を残しただけで、勝手に私たちが美しいと感じているに過ぎないと考えるとしたら、人間の傲慢というものです。
動物たちのことはまだ何も本当には知っていないと私は常々考えています。
本題に入りますが、サルや人間の幼児が書いた殴り書きを、アニミズム的な絵とは普通は見なさないですね。幼児の絵の発達で見てきたように、殴り書きというのは生理学的な、肉体の成長に深く関わっています。円が閉じるということは、その子が赤ちゃんの時から五感でもって探索してきた世界が世界として閉じると言うことでした。
子どもが動くものに生命を感じるというアニミズムが乳幼児期のどこから始るのかは、ピアジェにだって分かりません。ポケット君の絵を見ていると、その訴えかけてくるものは、ポケットの生命そのものから直截(ちょくせつ)に、もたらされていると感じます。そして動くものに命を感じるというだけでなく、この自然界にあるものとの命の交歓こそがアニミズムではないかと思えます。
アニミズムをそのように理解すれば、この抽象画はアニミズム的な絵ということが出来るかもしれません。
ピカソの絵を見てみましょう。
「セレスティーナ」1904年
ピカソの青の時代の絵には人間存在の悲しみが、描きだされています。表現は静かで深く抑制されてはいても生命力に満ちています。命そのものを裸のままに描き出したかのようです。
「ゲルニカ」1937年
ドイツ軍によるゲルニカ爆撃に対して描かれた、命を蹂躙するものへの
激しい抗議。
ピカソの新古典主義時代の「海辺を走る二人の女」1922年。生命の賛歌です。
ピカソの巨人のような生命力は時に荒あらしく、ときに静寂のうちに様式を展開させます。描きだされた命の核にアニミズムを見ることは不当なことではないと思います。大地と空と人、命の交歓です。アニミズムそのものと言ってもいいかもしれません。
先に結論を書いておきます。少年期と共に失われるアニミズムが大人になっていく過程でどのように姿を代えて立ち現われるのか、ずっと考え続けています。それはフラジャイルなものとして、静かに、繊細に。幽かに移り行くもの、わずかな時間現れては消えていくようなものへの眼差しとして。パリンと割れそうな命への感受性、社会的には弱者へと。常に権力の発生基盤である一方的に見る眼差し(ミッシェル・フーコー)ではなく、他者との関係性のうちに。そのようなものとして、個人として、民族として、人類の芸術が形作られていくのだと思うのです。
以前に書いたロシア人に特有の心性で言うなら「タスカ」せつなさ、もののあわれとなります。日本人の心性も端的に「もののあわれ」。日本民族の起源の一つがロシアのバイカル周辺ですから、人種や民族に特有の心性というのは普遍性があるのでしょう。
源氏物語にもののあはれを感じなかったと書いたのは、私の認識不足でした、本居宣長のいう「もののあはれ」の本質は、はかないものに寄り添うということですから、プレイボーイとはいえ光源氏は、はかない立場の女たちに寄り添って、しかも晩年は女性たちをみな敷地内に住まいを建てて、生涯見放すことがなかったのですからフラジャイルな心性の現われと見ることが出来そうです。まして末摘花に対してさへ他と変わらぬ愛情ですもんね。
「わび」「さび」もフラジャイルです。この誰もが知ってて、一人も研究者がいなかった言葉に、一人で光を投げかけ解明した人がいます。復本一郎著「さび」塙書房刊。松岡正剛氏の「千夜千冊」より引用。
芭蕉一門の「わび」「さび」「ほそみ」について
引用開始
・・・つまりは、連歌では花守という言葉はタブーなのである。それを連歌では「よはし」(弱し)と言って極力避けてきた。連歌は「よはし」と「いやし」(卑し・賎し)をずっと避けている。そうした卑賎の職能につく者を歌わないように心掛けてきたわけだった。
ところが俳諧は、その「よはし」「いやし」を持ち出した。俳諧のフラジャイルな特色がそこにある。俳諧は、差別され、卑しめられている職能や光景をあえて採りこんだのである。弱々しく、汚いものにも目を向けた。・・・・
しかし、ここが肝心なところだが、なるほど、俳諧とは弱者に目を向けたものなのかと理解するだけではまにあわない。そうではなくて、そのような際どいものや名指ししにくいものを、さらにきわどく細めていったところが俳諧なのだ。「よはし」「いやし」をしおれさせたのだ。
芭蕉の弟子に尚白という俳人がいて、「はな守と見れば乞食の頭(かしら)かな」という句を詠んでいる。これなど、かなりきわどい細りをやっている。
そうすると、去来が花守を詠んだこと自体が、まず俳諧的冒険なのだということになる。これが前提だ。
そのうえで、賎業の花守とはいえ、そこには「花」がみごとに咲いているというイメージの引き込みが加わっている。このとき、花の明るさと花守の白髪が対同し、ひとまず多少のサビ色が見えてくる。白髪は「よはし」であって、寂しさである。けれども、これで一句がサビ色になったわけではなかった。ここにはさらに奥のほうから到来する色があったのである
引用終わり あとは千夜千冊(←クリック)でどうぞ。
俳句では作句において吟行ということが言われます。確かに旅にでて巷の喧騒から離れ、自然や珍しい風物に出会うことで、感性が洗われ句が生まれるます。しかしそれだけでは蕉門の「わび」「さび」は 見えてこないでしょう。芭蕉の旅は天命に従うような旅です。旅中、病に倒れるかもしれないですし、盗賊に会うかもしれません。行く先々の素封家や有力な武家に宿を提供され、名所旧跡に案内されることがあっても、多くは旅籠や貧しい一井の人々の世話になっていたでしょう。弱い立場といえますし民衆との出会いによって綴られた紀行文です。このことを抜きにして芭蕉を語ることも、「わび」「さび」について語ることもできません。
一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
この句の遊女が仮に芭蕉の創作だとしても、これが「わび」なのです。
美術とアニミズムについて考え続け、ようやく理論面が明らかになりました。ギリシャ美術の記事の方は遅々として進んでないのですが、素材が発酵し、熟成するのを待っています。過去の美術史が踏み込めなかった領域の探索です。
幼少期のアニミズム、自然との交歓が悲しみや困難を乗り越え、成熟した個人のうちでフラジャイルなものとして静かに息ずいて、芸術へと変貌する。
それは喩えれば盲導犬です。レトリバーの子犬がドナーの家庭で、家族の一員として愛情に包まれて一年を過ごし、やんちゃ盛りから、訓練士と共に盲導犬としての訓練を受け、眼の不自由な方と静かに静かに生活を共にし、やがて見取られてこの世の役割と生を終える。
このような視点を得ることでようやく、なぜ先行するエーゲ海の文明から、アルカイク期を経て、あの古典期の彫刻が誕生したのかが理解できたのです。重心のかかった足に対する、わずかな腰と肩の線の位置の把握だけで、肉体を通して人類の青春時代が表現されたのです。命の瑞々さ、清冽さが理想の人体比率と造形のうちに表されたのです。
ピカソの芸術は共に過ごした親友の自殺を止めることが出来なかった悔恨と、慟哭の内に、社会の弱者との交わりを通して、沈黙の芸術として形創られたのです。そしてばら色の時代を経て、新古典主義の時代の生命への賛歌となります。
ではキュビスムは?。キュビスムの革命的で実験的なな点だけを見てはいけないのです。それは確かに近代の美術が絵画の自立と、平面に向かって辿ってきた一つの帰結ですが、私たちがこの世界の内に在るものとの関係性が一方向ではないこと、視点というものの多様性について、ピカソの意識に幽かに去来するものが、まずあったはずです。そのような生と芸術をアニミズムと共に、そしてフラジャイルな心性として捉えたいのです。
中日新聞のサイトで豊田市美術館館長の吉田俊英氏が「アニミズムと日本美術」として葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の「大波や画面全体のリズムなどはアニミズム抜きには考えられない」と書いておられました。
うねり、立ち上がり、今まさに崩れ落ちようとする瞬間の波頭は、頭のようでもあり手のようでもあります。無意識に擬人化されているようにも感じます。原始的な生命感がみなぎっていて、アニミズムの絵といえそうです。
この絵を見ると私は谷内こうたさんの絵本「かぜの ふくひは」(至光社刊)を思い浮かべます。谷内さんの絵本はどれも端的に、少年のアニミズムと子どもの心を失わなかった作家の創作の秘密を語っています。
かぜの ふく ひは こうあつせんが なる
かぜの ふく ひは
のはらはうみ
かぜ かぜ かぜ なみ なみ なみ
うみが なる とおくで つかくで
あっ
おいかけて おいかけて
おかの むこうは ひかる うみ むぎば
たけ
そして少年が見たものは・・・・至光社の国際版絵本でお読みください。
少年の不安のなかでは木々のざわめきは大波です。命あるものとして迫ってきます。少年の孤独と不安は最後に光に至ります。
「かぜの ふくひは」は谷内こうたさんのデビュー作。多摩美術大学を中退して京染めのデザインをしつつ描かれた絵本。主人公の顔が卵のようにツルンとしているのに、迷われた武一八十雄さんが、岩崎ちひろさんに相談されると「これでいい」とのお返事で、そのまま出版されたということです。その後またたくまに世界的な絵本作家となられました。
フラジャイルな子どもの心を持った画家、谷内六郎は叔父にあたります。