クレタ島のミノア文明と美術(1)工事中 |
クレタ島ミノア文明と美術
まず土器から見てみましょう。
初期ミノア文明は紀元前3000年くらいまで 遡る。世界遺産で知られるクノソスなどの神殿が築かれるのは前2000年頃。
草文嘴壺 後期ミノス初期(前1550-1520年頃) ファイストス出土 高さ29㎝
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、後期ミノスの初め頃、自然主義的な植物文様が陶器装飾として盛んに用いられるようになる。深緑色の葦の葉が、器の下方から繊細かつ伸びやかに表面を覆う。底部近くの葦が生え出す部分は、波うつ帯状文様となっており、鉤ホック形の舌状文様が下向きに添えられている。この舌状文様はエーゲ美術圏では川または水辺の湿地帯を示す、いわば記号として使われているので、この壺でも水辺に生える葦の様子を意図していることが理解できる。この葦の草文の特徴として、葉の部分を二筆で描く点と、また器表面の明と暗の配分を微妙に綾織る点の二つが挙げられる。一見して識別できる特徴で、青銅器時代の「葦の画家」と呼ばれるという。
もしも形が日本風なら、こんな葦文のある壺は日本で作られたものと思いそうだ。
左は梨形リュトン 第1宮殿時代末期(前1700年頃) 高さ21.8㎝ ファイストス出土
説明板は、白い口縁部は花の形になり、液体を捧げる儀式に用いられた器という。
これもリュトン。
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」では浮彫のある白いユリを模した口縁部という。
古い時代にはこのような明らかに6弁よりも多い花もユリと呼んでいたようだ。
「唐草文様」は、第1宮殿時代の終り頃には、驚くほど洗練された図柄が制作されるようになった。
ここに施された装飾文様は、もう完全に唐草の領域である。その美しさ、空白の処理の手際のよさ、図柄同士のリズム感のあるつながり具合・・・。
このリュトンは、口径部の花弁に絡み渦連続文が刻み込まれ、胴部には波濤文様とパルメット風の唐草が描かれて、そのバランスがほぼ絶妙の域に達している。
このほとんど完全に「唐草」と呼べる文様-クレータ島のファイストス宮殿の工房で誕生した紀元前第2千年紀前半のカマレス陶器の意匠を、ここで「第1の唐草群」あるいは「幻の唐草群」と名づけておこうという。
確かに口縁部には連続渦巻文の浮彫があるし、器体には大きくパルメット唐草のような文様が描かれている。
しかし、著者が後に述べるように、この「第1の唐草群」は、いわゆる唐草文へと続くものではなかった。
右は嘴形注口付き双耳壺 前1882-1750年頃 高さ11㎝ ファイストス出土
注口を背後に回しているのは、赤と白の合成植物文を見せるためだろう。2つの多弁花文は目に見え、中央の赤いものは口に見える。器の形と文様とでフグに見えるのは私だけだろうか。
遠くから見ると黒くて重そうだが、器の口縁部はかなりの薄造りであることが鉢でわかる。
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大宇宙(マクロコスモス)とミクロコスモスとのあいだに照応を読み取とろうとすること、そこには、素朴なアニミズムとかたづけてしまえないものがある。現代の作品でも、例えばシュール・レアリストの画家マックス・エルンストの「フランスの庭」には、風景と女性の肢体が渾然と描かれ、他我の未分化な意識下の世界のようでもあり、現実を超えた理想の調和のようでもあって、見るものに一種の陶酔感をもたらしてくれる。
白川静の字通によれば「神」という字のもとの形「申」は、二つの繋がった蕨(わらび)手状の渦巻きをあらわしているという。雷も、もとは壘の下の土を消した恰好で、この田の形は古くは渦の形象だったという。雷雲は神霊の渦なのだろう。ラーメン丼のふちを飾る雷紋(四角くデザインされた渦巻きの繰り返し文様)は、いと厳かな歴史を秘めているのだ。
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、クノッソス、マリア、ファイストスなど、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。
紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き[1]、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。
クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。
初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。
紀元前2600年の楔形文字[2]のシュメール文字が解読されたことにより、原シュメール語の使用が確認された。時代が進むにつれアッカド語に押され、紀元前2000年頃にシュメール人のウル第三王朝が滅亡し、セム語系アッカド語を話すアッカド王朝を経て、約200年(イシン・ラルサ時代)後の紀元前1830年にセム語系アムル語を話すアムル人のバビロン第1王朝に覇権が移る頃に、口語としては死語となった。シュメール語の死語化については、軍事征服による虐殺や言語の強制といった兆候は発見されていない。シュメール都市への移住者が少数のうちは移民も速やかにシュメール化されたが、ある時期から比較的短期間にセム語民族が大量に流入し、シュメール人が逆に吸収されてしまったものと推測されている[3]。
しかし、古代メソポタミア社会において宗教語、学者語として長く受け継がれ、ヨーロッパにおけるラテン語やインドにおけるサンスクリット語に類似した地位を与えられた。