2015年 09月 03日
ちょっと立ち止まって子どもの詩から |
今 ハンナ・アーレンとについて書くのはしんどいので、この記事は完結したものとします。
美術史上の作品からアニミズムに該当する作品を抜き出してくると言うのは、難しい作業です。
子どもの表現したものであれば、まさにその世界の住人ですから、たとえスケッチのようなものでも何がしかの形で、アニミズムは息づいているでしょう。あえてアニミズムという必要もないほどです。動くものだけでなく万物に命を感じ取っているからです。
子どもの場合、絵よりも詩のほうにより端的にアニミズムを認めることができます。
少し立ち止まって(立ち止まってばかりですが)灰谷健次郎の「たいようのおなら」「せんせいけらいになれ」、鹿島和夫「1年1組せんせいあのね」(理論社刊)から子どもたちの詩を読んでみましょう。
「ぼくだけほっとかれたんや」
1年 あおやまたかし
がっこうから うちへかえったら
だれもおれへんねん
あたらしいおとうちゃんも
ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも
それにあかちゃんも
みんなでてってしもうたんや
あかちゃんのおしめやら
おかあちゃんのふくやら
うちのにもつがなんにもあらへん
ぼくだけほってひっこししてもうたんや
ぼくだけほっとかれたんや
ばんにおばあちゃんかえってきた
おじいちゃんもかえってきた
おかあちゃんが
「たかしだけおいとく」
とおばあちゃんにいうてでていったんやって
おかあちゃんが ふくしからでたおかね
みんなもっていってしもうた
そやから ぼくのきゅうしょくのおかね
はらわれへんいうて
おばあちゃんないとった
おじいちゃんもおこっとった
あたらしいおとうちゃん
ぼく きらいやねん
いっこもかわいがってくれへん
おにいちゃんだけケンタッキーへついってフライドチキンたべさせるねん
ぼくだけつれていってくれへん
ぼく あかちゃんようあそんだったんやで
だっこもしたった
おんぶもしたったんや
ぼくのかおみたら
じっきにわらうねんで
よみせでこうたカウンタックのおもちゃ
みせたらくれくれいうねん
てにもたしたらくちにいれるねん
あかんいうてとりあげたら
わあーんいうてなくねんで
きのうな
ひるごはんのひゃくえんもうたやつもって
こうべデパートへあるいていったんや
パンかわんと
こうてつジークのもけいこうてん
おなかすいたけどな
こんどあかちゃんかえってきたら
おもちゃかしたんねん
てにもってあるかしたろかおもうとんねん
はよかえってけえへんかな
かえってきたらええのにな
「チューインガム一つ」
3年 村井安子
せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごくわるいとこした
わたし おみせやさんの
チューインガムとってん
1年生の子とふたりで
チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさんが
おばさんにしらせたんや
わたし ものもいわれへん
からだが おもちゃみたいに
カタカタふるえるんねん
わたしが1年生の子に
「とり」いうてん
1年生の子が
「あんたもとり」いうたけど
わたしはみつかったらいややから
いややいうた
1年生の子がとった
でも わたしがわるい
その子の百ばいも千ばいもわるい
わるい
わるい
わるい
わたしがわるい
おかあちゃんに
みつかれへんとおもとったのに
やっぱり すぐ みつかった
あんなこわいおかあちゃんのかお
見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見 たことない
しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう でていき」
おかあちゃんはなきながら
そないいうねん
わたし ひとりで出ていってん
いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せ んせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても
どこへもいくところあらへん
なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん
おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん
けど おかあちゃんは
わたしのかお見て ないてばかりいる
わたしは どうして
あんなわるいことしてんやろう
もう二日もたっているのに
おかあちゃんは
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしよう
いきなり重い詩ですが、子どもらしいアニミズムの詩というのは、子どもの心性の一面です。
子どもたちも共に時代を生きています。過酷な現実は子どもだからって手加減してくれません。大人ならつぶれそうな状況でこそ、子どもの本質が示されます。灰谷さんが、テダノフワ『太陽の子ども」といっている、過酷な状況で子どもが見せる優しさです。向日性とともにあるアニミズムと捉えたいのです。
子どもたちだって精神を病みます、否、子どもだから病む心というものがあります。越えていかなければならないたくさんの問題行動として症状が出てきます、でも心のもっとも深いところに、強さと優しさが棲息しています。それはアニミズムというレンズで一点に集められた、命への想いです。強さと優しさが魂の代名詞なのでしょう。
「チューインガム一つ」安子ちゃんはお母さんにうんと叱られて、灰谷先生のところに連れてこられます。書かされたノートには、私は盗みをしました、もうしませんと書かれています。許しをこうているのですが、灰谷さんは母親を帰して教室で二人向き合い詩を書かせます。泣きながら書いているのですが、先生は納得しません「安子ちゃんほんとのこと書こうな」とだけつげます。厳しい沈黙の中で紡がれた詩です。このままではこの子の『人間性の回復はない」とまで書いています。
人間性がおきざりされたまま大人になっていくのが大方のコースでしょう。ここまで自分を見つめることは私たち大人にはできません。
何を考えているのかと言うとハンナ・アーレントのことです。
悪とは何か、人は人を裁けるのか、と言う根源的な問いに行き付くのです。
by hikari_1954h
| 2015-09-03 01:02
| アニミズムから見る美術史