2014年 12月 23日
キリスト教信仰のこと(1) |
キリストとの出会いは、高校生のころ亀井勝一郎の著作を通してでした。兄が社会学を専攻していましたから、本棚にはマルクスやウエーブァーとならんで、亀井の本が5.6冊ありました。
「信仰と美の誘惑」「法然」「人間教育」など、難しいながらも読み浸っていました。現在までの読書と思惟の枠組みは、そのころ作られました。
大学1年生の時、美術を専攻している友人に誘われて初めて礼拝に出ました。
日本では沖縄に本拠がある、クリスチャンズ・イン・アクションの開拓伝道所が福岡県の香椎にありました。アメリカ人の牧師ご夫婦と、まだ若い伝道師が2人(男性の方はウエインさん、女性の方は令子さんといいました)。
クラブ活動やボランティアが忙しく、主に聖書研究会のほうに出席していました。
当時、令子さんはすでにゴスペルシンガーとして、アルバムが出ていました(よく調べると私が4回生の時でした)。
礼拝では令子さんの弾くギターで、ゴスペルソングを歌っていました。
3年前教会の日曜学校で話をするのに「確かレイ子さんと呼んでいた」と検索で調べたら、大地を踏みしめて歌う、堂々たる、おばちゃんの映像に出会いました。
「違う、この人じゃない」と思ったのですが、若いころの写真が、間違いなく令子さんその人なのでした。
ウェブに書かれていた経歴に、生まれてから会ったことのない、アメリカ兵を父に持ち、アイデンティティーの悩みから、ドラッグにはまり、キリストとの出会いで救われたという話が載っていて、
「あー、そうそう、あのころ令子さん、そんな話をしていた」と、思い出しました。間違いなく学生時代に接していた女性でした。
それにしても、あの線の細い、「階段のところでイエス様にお会いした」なんて、真剣な顔で話していた令子さんが・・・
押しも押されもせぬオバちゃん・・じゃない、日本を代表するゴスペルシンガーになられていたなんて、キリスト教会とは、ずっと縁が繋がっていたのに、全く知らなかったのでした。
日本国際飢餓対策機構親善大使をなさっています。
これははもう時効だから書きますが、私を教会に誘った友人は、才能のある男でした。2年生の時に、令子さんをモデルに描いた100号の油絵が、西日本美術展に入選していました。
一途に令子さんに思いを寄せて、精神のバランスを崩し、父親が迎えにこられて退学し、療養のため郷里に帰って行きました。
その別れのときの胸の痛みが、今も心の奥にあります。相談相手は私だったのだもの。
一途なところは二人は似ていたのだろうと思います。ただ令子さんのほうは一途にイエスに恋してあったので、これはかなわぬ恋でした。
ところで大学2年生のころは私も、かなわぬ恋をしていました。友人の激しい恋と比べると、あまりにも儚いのですが。
私は大学では茶道部でした。2年の夏休みに福岡の大学茶道部合同で、萩に研修旅行に行きました。バス何台かで行っていますから、どういう出会いだったのか覚えていませんが、A短大の2年生の女子学生と親しくなりました。
その方はカトリックの信者さんで、信仰の話で気があったのだと思います。萩の窯元を二人で巡りました。
旅行から帰ってきて、手紙を書きました。ラブレター。
すると思いもかけない返事をもらいました。長崎のクリスチャンホームに育った方で、短大を卒業すると、シスターとして修道院に入ると書いています。絶句・・・。
冬、その女性の卒業前のお茶会で、再会してお別れでした。振袖姿が可愛くも、しとやかでした。ちょっと立ち話をしました。
「ごめんね」
と、その人は言いました。
あー、宇宙創成のビックバンのエコーが、永遠に背景放射として宇宙に木霊しているように、この言葉はそれから現在まで私の心の内で幽かに響き続けているのです。
ごめんね
若いころの上原令子さんのテープより
たぶん作詞・作曲も。 昔を思い出して涙が出ました。
上原令子さんの教会でのコンサート
音響が悪いですが
by hikari_1954h
| 2014-12-23 17:38
| キリスト教(神学、歴史、信仰)