2014年 04月 27日
野の花スケッチ 「レンゲソウ(ゲンゲ)」 |
中国原産、緑肥として田んぼに咲いているけれど、野の花として自然に咲いているのは見かけることはない。私の子供の頃のイメージでは野の花で、冠を作って遊んだ記憶が強くて、そういう絵を描いたことがある。
絵のイメージとしては、野原のイメージで描いている。だけど田舎暮らしのときのスケッチも頭にあるから、花の咲方を見ると、まばらな所もありちゃんと田んぼでの子どもの遊びでも通じそうではある。
田舎暮らしのときの家の上のおばさんが「同じに種をまいてるのに、どうしてまばらに咲くんだろう」ともらしていたのを思い出す。
それからこの天使の絵。
ここいらあたりからまともに絵を描いていないので、現在のところ私の代表作の一つですが、やっぱし野原のイメージで描いてます。
子どもの頃のイメージというのは、非常に強いですね。実際のところはどうだったのかは今となっては分からないですが。今の博多駅の裏の方はどこまでも、田んぼや野原が続いていましたから、レンゲソウというのはその両方に混ざりこんでイメージを形成しています。
私は小学生時代くらいまでの生活圏が、心の中の原風景となると思っているのですが、異論もあるようです。中学時代に住んでいた所が原風景になる、その証拠に夢に出てくる風景はその頃のものが多い。そう言われてみれば、そういう気もします。
しかし夢によく出る景色は、今の私が体験する事柄や、そこから生じる感情に、思春期の鋭い感受性と生活の場面が結びつきやすいという、そういうふうに考える方が正しいのではないかと思います。
幼、少年期の体験の中核には、家庭と極身近なご近所さんとの結びつきが、自己対象として個の内面にとりこまれますが、もっと広い社会、民族性、その伝統や歴史までもが私を形作っていきます。
それにユング的な人類に共通な原体験とか、原型というものもあります。これなくしては深い文学は書けないでしょう。
中勘助とかデ・ラ・メア、ファージョン等の文学、ファンタジーは、人類に普遍な原型、テリブリー・ママとか老賢者などの、文学的なな造形という捉え方もできます。
ゲーテの「ファースト」の登場人物に、ユングにはない原型を感じ取ったことがあります。透明でクリスタルな、小人だったか、人です。
昔「ねむの木学園」の子どもたちの絵についてこういう文章を書きました。「彼等の絵がどのようなものであるか、まとめると次のようなイメージとなる。手作りのあやうい、小さな船に乗って、一人(時にまり子さんに支えられながら)孤独の海に出て、掴み取られたか、釣り上げた、色とりどりの象徴という魚が、そのまま一枚一枚の絵である、詩となっている。そういう作品」(赤とんば通信)
この文章を書いた時はユングが念頭にありました。
私が今、野の草花を描いているのは、花の妖精をテーマとした絵本を描くためですが、スケッチを通して子ども時代の原風景を辿っているのかもしれません。
追記。博多では「ゲンゲ」と言ったことがなく、金子みすずの詩に「ゲンゲ」と出てきて、なんだろう?と思ったような気がします。
by hikari_1954h
| 2014-04-27 22:50
| 野の草花ノート