2014年 03月 23日
「しいのみ学園」の想いで (2) |
昇地三郎先生(少し若いかな)
しいのみ学園を訪問して、1週間くらいたった時だったか、昇地三郎先生から家に電報が届きました。昇地先生から私に電報。家のものは皆、目を丸くしています。
用件は、昇地家の母屋の雨漏り防止のシート張りのお手伝い。あはは。
三郎先生の娘さん、国子先生の婿養子である、昇地勝人先生と二人で屋根の上にシートを被せ、何か重石を載せたのでした。三郎先生は下で見守ってられたかな。
今思えば、私立の「しいのみ学園」を支え、運営していかれるのに手一杯で、母屋の屋根瓦の張替えまでは、なかなか手が回らなかったのかもしれません。
この日初めてお会いした勝人先生が、一年半後には、進学した教育大で担当教官になられるとは、夢にも思いませんでした。
九大で成瀬悟作先生を中心に、開発され確立された、心理リハビリテーションの、草創期からの研究者で、教育大の肢体課程の学生を指導し、多くの脳性まひの子どもたちの、リハビリを行われました。教育学博士。現在の学園の理事長です。
しいのみ学園自体は養護学校の義務化に伴い、幼児の障がいを持つ子どもたちの、通園施設として、法人として再出発します。その時、それまでの学園の子どもたちと先生方は、教頭でした篠崎先生を中心に、大宰府でコスモス学園を作っていかれます。大きな困難の中でも、しいのみ学園の教育理念を守り通されました。
教育大で同期だったT君が、しいのみ学園の最後の一年を教諭として勤め、コスモス学園にも(半分ボランティアでしたが)、しばらく勤めていました。その後、筑紫野市の社協で「さるびあ学園」をつくっていきます。勿論「しいのみ学園」の理念の具現でした。私にとってはただの酔っ払いの、面倒見のいい友人なのですが。
もう一人、教育大の同期のSさんは(年齢がいくつも上です)、自身脳性マヒの障がいがあるのですが、施設で指導員をしながら、地域で障がい者の共同作業所を作りをし、法人施設になった時に理事長を務めました。
昇地三郎先生と、しいのみ学園に連なる、 学者や教師の方たちは、誰も自身の功績について語る人はいません。非常に寡黙に、黙々と生涯を福祉、教育に捧げられます。
同期の二人を私は四十年来親友と自分では思い接してきました。けれど私にはこの世界で残してきたものがありません。
縁あって昇地先生に出会い、友人と出合った、自分にわずかでも役割があるとしたら、自らを語らない人たちに代わって、いくらかでも文章に留める、それだけが与えられた分だと思うことにしています。
二十年以上前のことですが、福岡市内で映画「しいのみ学園」(清水宏監督、宇野重吉、香川京子主演ですね)を、自主上映した時、三郎先生をお呼びして、上映前に短い公演をお願いしました。その時の先生の少し淋しそうなお姿が印象に残っています。
まだ国子さんはお元気でしたが、二人の息子さんを亡くされ、奥様も亡くされた淋しさを、感じずにはいられませんでした。
ご家族、後継者、世界を舞台とした教育界でのお働き、悲しみも困難も、全て整えられた、神様の御業です。
学生時代の「しいのみ学園」での想い出はたくさんあります。学芸会、運動会の時には、一週間泊り込みで準備の手伝いをしました。
何といっても昇地先生の御次男、照彦さんの、人懐っこい笑顔、タオルでよだれを拭きながらの会話。その抜きん出た絵の才能。私に力がなくて、その絵を世に伝えることができなかったことを、今でも悔しく思っています。「ねむのき学園」の絵の指導をされた、谷内六郎さんのような方が図工を教えてあったなら、どんなに良かったでしょう。
昨年暮れ、亡くなられた昇地先生の焼香にSさんと、T君が行って電話をくれました。マスコミに接することのない私ですから、その時初めて亡くなられたことを知りました。「教えないと川口君が怒るだろうと思って」と言うのです。そのような人生のつながりなのです。
想い出のアルバム
右下しゃがんでカメラを構えているのがS さん
昇地三郎先生の詩
コスモス
小さきは 小さきままに
折れたるは 折れたるままに
コスモスの花咲く
続く・・・・
by hikari_1954h
| 2014-03-23 13:39
| 美術教育研究(コラム)